いい母親を、諦めた先に

始まりは、微熱からの早退でした。

翌朝には熱は引いていたけど、

体温計の音が何度も耳に入る。

 

⦅あ、行きたくないんだな。⦆

 

何度目かの「ピピっ」という音の後、

37.0℃の体温計を持ってきた娘。

「無理しなくていいよ。休みな。」

そう口では言いながらも、

あの新年度のえも言われぬざわつきとソワソワ。

 

そこから始まった、学校に行かないという選択の日々。

毎朝、連絡アプリの「欠席ボタン」を押す指は、

ためらいとわずかな震えを隠せず。

 

「いい母親なら、子どもを説得して学校に通わせるべき」

「学校に行けない間は、子どもに寄り添い続けるべき」

 

私の中で古いカセットテープが

ガチャン!と音を立てて再生された。

 

誰に吹き込まれたのか、

一体誰が掲げた⦅理想の母親⦆なのかもわからないのに、

こう在るべき母の姿が私の心を縛っていく。

 

そこに「いやだ!いやだ!」と反発するかのように

 

「お母さんはあなたのせいで自由がない」

「私はこんなに頑張っているのに…」

 

心の奥底でドロドロした声を響かせていた私。

その本音を認めるのは、本当に怖かった。

 

だって、いい母親失格、みたいだもん。

 

何度テープを止めても、気づくとまた巻き戻されて、

頭の中で繰り返し繰り返し再生される。

 

でも、ふと気づいた。

 

誰かにとっての「いい母親」という虚像に、

私が振り回されていただけだったんだって。

 

「本当は、私もわがままを言いたかった」

 

そう気づいて、テープを止めるボタンを

指先で「ガチャッ」と押したとき。

 

「いい母親」の幻想が消えて、

ありのままの娘の声が聴こえた。

 

「学校には行きたくない。でも、お友達とは遊びたい」

 

かつての私なら、「そんなの都合が良すぎる!」と反発したでしょう。

 

でも、テープの再生を止めた私には、

「この子には『繋がり』が必要なんだ」って。

 

そんな時、娘のお友だちが一通の手紙を届けてくれて。

 

手紙を見た娘の、頬がキュッとあがって、

瞳の奥にパッと光が灯るような笑み。

 

その瞬間を母は見逃しませんでしたよ。

 

「お母さんも一人になりたい。だから学童に預けるね」

「あなたはお友だちと遊びたい。だから学童に行く?」

 

お互いに自分に素直になることを許した瞬間でした。

 

学童の先生からは「どうぞ、どうぞ!」と。

張り詰めてた心が緩んだ。感謝しかなかった。

 

ある方には「いいのよ、それでいいの〜」と言われ、

ある方には「学童だけ…」と苦笑いされ。

 

でもその苦笑いも、よくわかる。

だって私もずっとその「正しさ」の中にいたから、

むしろ「ですよね〜」に近い感覚。

 

誰かにとっての正しさより、

私たちの「心地よさ」を選んだら、

私の中にいた「いい母親でいなきゃ」が、

シュルシュルと小さくなっていく感覚。

 

学校に行くのは、

誰のためでもなく、

自分のためであっていい。

 

人生だってそう。

 

誰のためでもなく、

自分のために生きていい。

 

もう今の私には合わない古いテープはゴミ箱に捨てよう。

でも、自分を守るために持ち続けた古いテープだから、

捨てるのがまだ少し怖いなら、

持ったままでも大丈夫。

 

もし、また古いテープの声が鳴り出したら

「あ、また再生しちゃったね」って、

笑ってポチッと止めてあげればいいだけのこと。

 

学校に行かない選択をしたこどもの姿に

揺れない親はいるのだろうか。

 

きっとこれから先もわたしは揺れるのだろう。

そんなわたしに誰よりも早く

「そうだね」と言えるのは自分だけだから。

 

「どんな時でも、自分だけは私の味方」でありたい。

 

今日もあなたにとって、

新緑の中で心地よい風が吹く一日になりますように。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 生きづらい世の中だけど、素直に自分を認めてあげることが強さだと思うわ。がんばる=嫌なことややりたくないことを報酬のために無理やりしかたなくやる。ではなく、顔晴るがよい。自分を認めて、家族を認めて、晴れ晴れと顔を上げていこう!

    • 強がること、幸せなフリをすること、平気を装うこと、それをやめることは自分の弱さを認めることでもあるよね。顔晴る。いつのまにか、この言葉使わなくなっちゃって、必死に頑張ってた。でも、もう一度、顔晴ってみようと思う。ありがとう。

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